何を着ていこうかと考えるのは、クリスにとって久し振りに楽しい事だった。
上着には、以前ナッシュらと共に旅をしたときの緑色の上着を選ぶ。
ブラス城に戻ってきてからも、クリスはそれを思い出と共に大切に仕舞っていたのだ。
馬で駆けてゆくので、足捌きの容易な、男物のズボンを合わせてみた。
そして、頭には長い銀髪をすっぽり仕舞い込んで隠せる、前つばの付いた大きめの緑の帽子を買って被る事にした。
曲線を描く肢体と腰に下がった剣さえなければ、一見して少年のような出で立ちとなった。
これなら、「お忍び」の旅に、充分といえそうである。
鏡の前で自分の姿を映して点検しながら、クリスはこれから自分が行なうことを考え、小さく笑みをもらした。
クリスは、再建後初めて豊穣祭の行なわれるイクセの村へと行くつもりだった。
――「彼」に会いにゆくために。
机に向かって腰を落ち着けているクリスの背後にある窓がほんの少しだけ開けられていて、そこから階下の喧騒が風に乗って運ばれてきていた。
その中には商いを営む男の野太い怒鳴り声もあり、鍛錬を繰り返す騎士達の掛け声もある。
各々の生活が守られたその賑わいは、クリスの耳に心地良く届いていた。
戦いから一年が過ぎた頃、クリスはブラス城で騎士達と日々を過ごしていた。
以前とは比べ物にならぬほど至極平穏だった。専らの任務は時折出没するモンスターの駆除である。
緊張状態にあったシックスクランとは休戦協定を結んで、現在はおおむね良いと言える関係を保っていた。
評議会が近頃とやかく煩いのは頭痛の種だったが、それ以外は平和といえる状況にあり、サロメの報告もいつもと同じ事柄を繰り返すことが多く、不謹慎ながら少々欠伸を誘うものだった。
執務机に向かっているクリスの傍らに立っていたサロメは、報告書について説明を加えていた声を止め、彼の主を見下ろした。
「どうなさいました」
「あ、いや…何でもない。続けてくれ」
クリスは小さく咳払いをして出かけた欠伸を慌てて飲み込んで、サロメに先を促した。
「……は」
サロメはそれ以上何も問わずに、淡々と説明を再開した。
「このように、今年の収穫高は全体として例年を上回って豊作といえるものになりました。特に南の地方では天候に恵まれ……」
今年の小麦の出来を示す数値が羅列された文面に顔を向けながら、クリスはその中の一文に眼を吸い寄せられていた。
そこには、イクセの村についての近況が記されていた。
サロメの報告と違うことなく、この村もまずまずの収穫高を上げていた。前年の戦いで甚大な被害を受けたにも関わらず、それ以前の水準を僅かに下回る程度にまで回復している。
それは特筆すべき事項であり、報告書の中でも最初の数行の中に、その記述が含まれていた。
クリスはその文面を急いで黙読した後、それと気付かぬうちに、小さく息をついた。
では、「彼」の尽力は実ったのだ。
そう知ると、クリスは安堵した。
その一連の感情に、クリス自身は全く無自覚だったが、表情には表れていたらしく、クリスが我に返ると、サロメは報告を中断して、じっとクリスを注視しているところだった。
「あ……ああ、すまない。どこまで聞いたかな」
やっと自分が上の空だったことを自覚し、やや顔を赤くして、クリスはサロメを見返した。
ふっ、と溜め息を漏らすとサロメは苦笑し、手に持っていた紙の束を机の端に置いた。
「いえ、もうあらかた終わっています。後はご自身で確認していただいたほうが良いようですな」
「すまない……」
「構いませんよ。そろそろ切り上げて、ルイスに茶でも淹れて貰おうと思っていたところです」
ルイスが二人分のお茶を置いて執務室を辞したのを見送り、クリスはカップに手を伸ばした。
紅茶の芳香を嗅ぎながら、クリスはカップを両手に持ってぼんやりと考え事をしていた。
傍らに立つサロメはクリスの様子を見、出し抜けに言った。
「パーシヴァルは、どうしているでしょうな」
その瞬間、カップを持つクリスの手が揺れ、危うく中の熱い液体がこぼれそうになった。
クリスは慌ててカップを置き、無表情を保っているサロメの顔を振り仰いだ。
「サロメっ……」
「すみません、まさかクリス様がそれほど素直に反応なさるとは思いませんでした」
一瞬、微笑が横切ったサロメの顔を睨みつけて、クリスはふいとそっぽを向いた。
「私にカマをかけるなんて、お前も人が悪い」
「クリス様が、素直すぎるのですよ」
反論するというより、淡々と事実を述べる口調でサロメが言うと、クリスの横顔がより赤く染まったようだった。
内心で微笑ましく見つめながら、サロメは手に持ったカップからお茶を啜った。
本当に、この事に関してだけは、クリスは素直すぎるのだった。
騎士団長の位を継いで、既に一年が経過している。その間、徐々に場面に合わせて怜悧な女騎士団長の仮面を使い分けるコツを飲み込みつつあっても、こと自分の私事――とりわけ恋愛に関しては、まだまだ自分の感情を抑制できていなかった。
一言で表わすならば純情というべきか、と考えつつ、サロメは横を向いたままのクリスに話し掛けた。
「ところでクリス様」
「……なんだ」
「来週から、三日ほど、日程に空きが出来そうなのですが」
「……?」
唐突に話題を切り替えたサロメの話に、クリスは首を傾げた。
騎士団長であるクリスの日々は、常に、先々まで予定で埋まっている筈である。休暇をとろうとすれば、意識的に空白を作るしかないのだ。
「久し振りに、休暇を取られてはいかがですか。たまには、城の外に出て見られるのも良いのではないかと存じます。外の民衆の生活を視察するのも、良い気分転換になりますよ」
「いや、しかし……」
そんな余裕はない筈、と言いかけたクリスの言葉を遮り、サロメは言葉を継いだ。
「勿論、その前後は忙しくなると思いますが。……それでも、よい休暇になると思いますよ」
意味ありげなサロメの言葉に押され、クリスははっきり否といわないうちに会話を打ち切られ、うやむやのまま、その日のサロメとの仕事を終える事になったのだった。
サロメの真意を知ったのは、サロメが執務室を辞した夕刻、改めて報告書に目を通しているときだった。
「サロメの奴……」
その項目を読み、クリスは一人呟きを漏らして苦笑した。
来週、イクセの村では収穫を祝う豊穣祭があるのだった。
サロメの言った「休暇」は、その日程とぴったり重なり合う。
そうと知った時、クリスはサロメのお節介を出過ぎたこととして起こる気になれなかった。
サロメは、彼の主がそうと望むことを知っていてお膳立てをしたのだ。
彼は――パーシヴァルは、騎士団を去って故郷のイクセの村に戻った後、全くといっていいほど便りを寄越さなかった。
ごく気紛れに親しかったボルス宛てに手紙を寄越しても、一言二言の近況しか書いていないのだという。
クリス自身は、パーシヴァルの近況を伝え聞くのみで、手紙を貰ったのはただ一度きりだった。
騎士団とは縁を切ったと言わんばかりのその状態に焦れていたのが、サロメには手に取るように分かっていたのだろう。
そう考えると気恥ずかしいが、だからこそサロメはクリスがパーシヴァルに会いに行けるよう、手筈を整えてくれたのだった。
そして、今のクリスにはその気遣いを無用のものとして断る理由はなかった。
素直に受けるのも妙な意地が邪魔をしそうなものだったが、それよりも、自分の本音が勝っていることを知っていた。
一年以上も、パーシヴァルに会っていなかった。
彼は、今どうしているのだろう。それを知りたかった。
照れくさくてとても礼は言えそうになかったが、クリスはサロメの気遣いに感謝して、早くも来週の休暇に思いを馳せていたのだった。
・・・NEXT・・・